テスト WakeUpセミナー レター

このページでは2014年に開催された【Wake Upセミナー】の募集レターを公開しています。(セミナー詳細の案内など一部改変あり)

WakeUpセミナー

WakeUPセミナー

当時セミナーが募集された背景を知るきっかけとして、ぜひお役立て下さい。当時の募集案内はここから

Wake Up, Now!

こんにちは、木坂です。突然ですが、これからするのは、都内某所にある某高級ホテルにて、うどんを食べていた時の話です。

いきなり愚痴みたいになりますが、ホテルというのは実に割が悪いところです。バカな人達が求める“安全”のためにあれこれと過剰とも言える制約が大変厳しくかけられていて、たかがうどんを作るにもやってはいけないことがたくさんあり、手間、つまりコストばかりが天文学的にかさんでいます。

しかもそれらはほぼ味には無関係のコストだから、かけたコストの割に旨いものは出てこない。

要するに、高級ホテルというのは、高いけど大して旨くはないものが出てくるという、賢い人にとっては最低の店選択なわけです。言い換えると、その時の僕はそんなところでうどんという、この世で最も原価の安そうな粉モノを頼む大バカ野郎だったということになります。

僕も一応プロなので知っていますが、うどんなんて、駅の立ち食いソバでも相当な利益率なのですから、その10倍近い価格を出すというのは、我ながら全く常識的にはあり得ない決断なわけです。

さて、そんな大バカ野郎代表である僕の隣に、お世辞にもお金持ちそうには見えない、まあはっきり言ってしまえばバックパッカーっぽい、貧乏旅行中にしか見えないフランス人カップルがやってきました。

「ほほう、こんな原価率1%くらいのぼったくりうどん屋にまさかこんなお金のなさそうな観光客がカップルで入ってくるとは。日本が大好きなフランス人は、もっと日本日本したところに行くものだとばかり思っていたが、そうでもない人もいるようだ。」

「このうどんが日本のうどんだと誤解されたらやだなあ。日本が誇る出汁ってのは、こういう人工的な味じゃないんだけどなあ。まあ、フランス人だから、違いなんか分かんないだろうけど。」

などと全体的に失礼なことを考えながらうどんをすすりつつ横目で彼らを観察していたわけですが、どうやら彼らはフランス人によくある「ワタシ英語もあまりワカリマセーン」といったご様子。かと言って店員も英語は片言、フランス語はゼロ、といった感じで、さてどんなやり取りになるのかなと少し注目して見ていました。

日本人の店員が片言の英語と日本語しかしゃべれないので、コミュニケーションは自然とその2つの言語を使って行われることになりました。僕は一度にすするうどんの量を3分の1~5分の1に減らし、彼らの会話に神経の大部分を集中させていたのでわかったのですが、なんと店員は「ディスワン」「オッケー」「ジャパンショウユー、アンドワサービ」という3つの“音”だけしかしゃべりませんでした。

いや、実は、その後でもうひとつだけ、しゃべったことがあります。

それは、記念写真を撮るときです。フランス人カップルが頼んだ料理がすべてそろうと、店員がニコニコしながら顔の前でシャッターを切るジェスチャーをし、「写真撮りましょうか?」的なメッセージを送ります。これは世界共通なのかもしれないですね、すぐさまフランス人カップルも意味を理解し、笑顔でカメラを渡し、ポーズを取ります。その時、店員が言ったのが

「オー、グッドスマイル

という言葉でした。合わせて4種類。結局店員がしゃべったのは、たったの4つでした。

そのフランス人目線で見てみると、言葉がほとんど分からない外国に来て、その国の料理を食べようとして、理解できた言葉がたったの4つなわけです。もしかして結構不安だったんじゃないかとか、実はよく理解できないことがあったんじゃないかとか、食事は楽しめたんだろうかとか、思った通りのものが来たのだろうかとか、外野は心配になりがちなんですが、そのフランス人2人は食べ終わって少しすると

「アリガトー

と大変嬉しそうに店を出て行きました。その笑顔はとても満足そうで、社交辞令で言っている感じではなく、日本の料理を心から楽しんだぞ、写真も撮っちゃったぞ、帰ったら日本が大好きな友達にいろいろ自慢しちゃうもんね、という感じが全身で表現されていました。

笑顔を作ったのは、うどんだったのか?

多少オーバーに聞こえるかもしれませんが、僕はこの一連のやり取りを見ていて、「僕らが日本人としてこれから進むべき道」を教えてもらった気がするのです。それはとても単純で、でもとても難しい道です。

今の自分に出来ることを全力でやればいい。カッコつける意味なんかない。

もし、接客していた店員が、辛気臭い顔して、英語喋れない民族ですいませんみたいなメンタリティで接していたら、彼らの日本旅行はどういう印象になったでしょうか。仮にうどんがもっと美味しかったとしても、彼らが最後に見せた満面の笑みは、果たして見ることができたでしょうか。

僕は、ノーチップでこれだけやって当たり前、という、オリンピック招致のスピーチで日本が世界にアピールした“オモテナシ”の心があの時はっきりと2人のフランス人には伝わったのではないかと思っています。3割くらいうどんも旨く感じたので、むしろ僕が
チップを払いたいくらいでした。いや、元々ぼったくられてるんだけど。

一方その頃世間では、靖国参拝がどうのこうの、みたいなことで騒いでたりします。騒ぐことでそれを仕事にしている人たちは一定数いますからその人たちは仕方ないとしても、それ以外の一般人が熱心に騒ぐのは単なる時間の無駄だと言わざるを得ません。

というのも、あんな程度の“挑発”はどこの国でもやっているし、それにいちいち国民が振り回されているのは困ったものだと思うからです。内向きなおぼっちゃんが、国内の感情を優先させるあまり外国に対してちょっと刺激の強いことを言ったりやったりしてしまった、と。ただそれだけのことなのです。

もちろん、ただそれだけのこと、というのは、「大した問題ではない」ことを意味しません。外交上は大問題です。でも、大問題であっても無問題であっても、やってしまったものはやってしまったのですから、そこを時間かけて議論していても意味がない。参拝が正しいのか正しくないのかなど、総合的に考えれば一生決着がつかない問題ですから。

僕らは、その「起こった事実」を踏まえて、どう生きていけばいいかを考える。

そこにフォーカスすべきだと思います。再三言っているように、もうそんなに時間的な余裕があるわけではありませんから。政治などは、語弊を恐れずに言えば、壮大な茶番でありワイドショーであり東スポだと思えばそれでよいのではないかと僕は思っています。

だって、突然の質問になりますが、日本のよさってどこにあると思いますか?例えば隣で不器用にうどんを食べているフランス人から、「日本のよさってなんですか」って唐突に聞かれたら、なんて答えますか?

まさか、「日本の良さは、政治のよさであります!」なんて答えないですよね。当然「世界に誇れる政治家の素晴らしさです!!」でもない。

ただ来ればわかる。

日本の良さというか、すごさは、ここにあると僕は思っています。来たら絶対にわかるんですよ。特別なホスピタリティの訓練を受けていない人でも、単なるアルバイトの人でも、そしてその人が仮に中卒であったとしても、必ず外国人をよい意味で驚かせる接客ができます。日本の大衆居酒屋レベルの接客が、海外に行けば高級ブランド店でもなかなか受けることができません。

街並みも、山も、海も、文化も、建物も、都会も、田舎も、乗り物も、人も、食べ物も、全てにおいて驚かせることができるものが揃っています。まるで誰かのセミナーみたいなものですね。こんなに楽な商品はないと思います。とにかく日本に来てください、期待をはるかに上回る体験をお約束しますと言えばいいのですから。

アホな首相が何十年続いたってそれは関係ないわけです。僕は、いい加減もう優秀な政治家とか滅私奉公する官僚とかに期待するのはやめて、「自分の」価値に気がつくべきではないかと思っています。日本は昔から、トップがバカで現場は優秀と言われて残念がられてきましたが、

「僕らにトップダウンは向かない」と考えれば

別に何らの問題はないではないかと思うのです。もちろん、トップダウンが機能しない国は戦争には向かないとは思います。でも、それはある意味で仕方のないことです。全てに向いてる理想国家など目指す余裕はもうないわけですし、意味もないでしょう。特に、これからの戦争のあり方を考えれば、国家として戦争に向いている意味は全くないと思います。

それよりも、ここまでの老人国家になったら、徹底的に強みで勝負するべきです。

トップが無能なのではなく、トップは元々不要なのだと、コペルニクス的転回をすればいい。Stay Gold セミナーでも言いましたよね、今からは「権威という中心がなくなる時代だ」って。そう考えると、不要なポジションに有能なやつがいる方が問題だということになります。もったいないお化けが出ちゃう。

御輿は軽くてパーがいい、と小沢さんは言いましたが、そういう意味では半分くらい正しかったのかもしれません。僕は当時、この小沢さんの発言が嫌いでした。トップが優秀じゃないから、日本はこんなに停滞していると思っていたからです。でも、今は少し考えが変わっています。西洋的な、有能で倫理的に高潔な、貴族的トップがコントロールする国家のあり方は日本には馴染まないのではないかと諦めつつあります。

僕らの強みは政治家でも官僚でもない。彼らは日本で見れば優秀かもしれないですが、世界で見れば三流です。

しかし国民や精神性は間違いなく一流でしょう。

三流を頼り、三流に期待するのはバカらしいと思わないでしょうか。そんな三軍みたいな人間を試合に出している余裕がまだあるのでしょうか。僕は、先ほども言った通り、強みで勝負しない余裕はもうないと判断しています。そろそろ僕らは現実を直視して、それは政治に期待できないという意味でもありますが、裏を返せば「僕ら自身の力を信じるということでもあり、自分が何を出来るのかを考えて生きていくべきではないだろうかと思うのです。

老人国家というのは、好むと好まざるとに関わらず、強みで勝負しないとリソース不足になるわけですが、それは人間も同じです。若いうちはたくさんの無駄を経験し失敗をしていくのがよいと思います。なぜなら、リソースが有り余っているからです。無駄が許容できる。

でも、60歳とか70歳にもなってそのバッファがある人は少ないだろうと思います。となると、カツカツのリソースで何とかやりくりしていかなければならない、ということになりますね。

国としても個人としても、今がまさにその時ではないかと思うのです。

生き方の二極化。

僕はこれからどんどん、あらゆるフィールドで二極化が進むようになるといっていますが当然生き方そのものも二極化が進むようになります。それは今言ったような、自分の強み、個性、特性に立脚した生き方をするか否かということでもあるのですが、もう少しわかりやすく言い換えると

「毎日が同じことの繰り返しのルーティーン人生か、毎日新しいことにチャレンジするクリエイティブ人生」

に分かれるということです。「分かれる」という意味では既に現在でも分かれていますが音声や去年の Stay Gold セミナーや、さらにその前のマネタイズセミナーなどでも説明した通り、今後その流れが加速していく、さらに離れていく、という意味だと理解してください。

この二つの生き方を比較した時、前者には表面的なリスクがなく安定という魅惑の果実がぶら下がっているように見え、後者にはリスクがあり不安定という爆弾がぶら下がっているように見えるわけですが、しかしそれはもちろん真実ではありません。

「充実」「生き甲斐」などというものが全く不要だというならば、ルーティーン人生でもいいと思います。ですが、僕は今のところそういう人に出会ったことがありません。サラリーマンでも起業家でも、芸能人でも官僚でも、みなどこかで「充実」や「生き甲斐」といったものを求めていました。僕は、それは人間として当然のことだと思います。

アウシュビッツを含む、確か3つだったと思いますが、複数の強制収容所から奇跡的に生還した V.E.フランクルはこう言いました。

「人間は、他者から必要とされている限りにおいて、生きる希望を失うことはない」

と。人間の最も高い欲求が「他者から必要とされることである」かどうかについては僕は議論の余地があると思いますが、しかしこの世の地獄を生き延びたフランクルの見解には説得力がありますし、僕らもこの平和な世界での日常ではありますが、要所要所で実感していることだと思います。

他者から必要とされ、他者の役に立つこと、それが「充実」や「生き甲斐」に直結しているのです。ルーティーン人生というのは、「いくらでも替えがきく」人生のことであり、極端な話機械やロボットに置き換えても構わない人生のことであって、他者から本当の意味で必要と「されない」人生なのです。僕らは、そういう「他者から必要とされない人生には耐えることができない。フランクルが見てきた地獄においては、他者からの必要、すなわち生きる希望と意味を失った人から病気や自殺で死んでいったのでした。

実は、メガトン急に大きな爆弾がぶら下がっていたのは、ルーティーン人生だったわけです。

にもかかわらず、ほとんどの人がそのことに気が付かないのは、おそらくその爆弾が大きすぎて、何なのかもはやパッと見ただけでは判断できないほどのものだったからでしょう。

生きていく上で本当に必要なもの、大体の場合それは既に分かっているものです。ちょっと細かい解釈の議論は省略しますが、聖書にある「人はパンのみにて生くるにあらず」というのは、僕は「趣味も大事だよ」とか「お金だけじゃなくて心も大事だよ」という意味ではなく、「人が生きていく上では他者性というものが不可欠です」という意味であると考えています。そしてそういう強く儚い「人間」のために、僕はこういう文章を書くし、メルマガを書くし、音声を録るし、セミナーでしゃべるのです。

自分の人生って?

僕のメッセージの中心にはいつも「自分の人生自分で生きましょうよ」というものがあります。これは裏返せば「ほとんどの人は自分の人生、自分で生きてないですよね」という含みがあるわけですが、いずれにせよ、自分の人生を自分で生きられるようになれば、その人にとっても、その人の周りの人にとっても、そして世界にとっても、プラスになると考えています。

案外これを語る人は多くないようなのですが、今議論した、僕らが充実して楽しく生きていくために不可欠な「他者性」というのは、言い換えれば「他者から必要とされる自分」というのは、自分の人生を自分で生きて初めて現れるものなのです。

では自分の人生はどうやったら生きられるのか?この答えは、トートロジーのようになってしまいますが、

「自分の強みを最大限に活かしながら、自分の弱みも受け入れて、自己実現を果たしていく」

ことしかないのではないでしょうか。

先ほどの言葉を借りれば、パン以外のものにも目を向け、代替可能なルーティーン人生と決別し、クリエイティブと呼べるのかどうかはわか
らないけれどとにかく「世界で自分にしか生きられない人生を生きる」ということしかないのではないかと思うのです。

そのためには何をする必要があるのか?と聞かれれば、いろんな次元の答えが可能になるとは思うのですが、とりあえず

「自分が持つパラダイムを理解し、どうやってパラダイムをシフトさせるか、そして最終的にどうやってパラダイムから自由になるか」

を理解しなければスタートすら切れないのではないかと思っています。僕がいろんなことをしゃべり、書くのは、こういうことについて伝えていきたいという思いがあるからです。去年行った Stay Gold セミナーや2年ほど前に行った「使えるステージ理論」とか「使
えるパラダイムシフト」といったセミナーなどで伝えたかった大きなテーマの一つが、まさにこの部分になります。

ただ、時々誤解している人がいるのですが・・・

「私はどうしても変態になりたいのです!」


という、万が一電車の中で叫んでしまったらみんながドン引きするような熱い想いを胸に抱いている人はそんなに多くはないと思いますが、別に、そんな得体の知れない生き物になる必要はないと個人的には思います。というか、僕は自分のことを変態だとはいまだに思っていませんが、まあそれはともかくとして、僕が主張しているのは「変態になれ」でもないし「変わったことをやりまくれ」でもないのです。そうではなく、

「本来人はユニークであるのだから、それを取り戻せばよい」

と言っているだけなのです。

メルマガで配布した音声でハンナ・アーレントについて触れました。「陳腐な人間、ありきたりな人間がユダヤ人を何百万人も殺し、特攻隊で未来ある優秀な若者を1万4000人も殺した。つまりこれからの時代の“最大の悪”というのは、僕らとは次元の違う悪魔のような極悪人が分かりやすく行うのではなく、僕らみたいな陳腐な大衆が悪意なく行っていくものなのだ」と言いました。だから、僕は「陳腐な人間を一人でも減らしたいのだ、ヘラヘラしながら何百万人も殺せるような人を一人でも減らしたいのだ」と。

ただ、こう聞いてしまうと、何やら話が壮大で大変難しいことであるかのように誤解する人もいるかもしれません。あらためて言っておきたいのですが、陳腐でなくなる、非凡になる、ユニークになるというのは、何か特別なことをするわけではありません。世界が凍りつくような変なことをしろというわけでもありません。ジョブズのようなキチガイになれというわけでもありません。そうではなく、

「自分の人生をきちんと生きる」ことができれば、それは自動的にユニークになる

ということを理解してほしいのです。人間は、生まれながらにしてユニークです。だって僕という人間は世界70億人探してもかぶらないですから。本来人はユニークで、代替がきかないはずなのです。

でも普通に生きていると、そんな簡単なことが、僕らにはわからなくなっていくし、できなくなっていってしまう。そして、そういう「当たり前の生き方」ができなくなった人を、陳腐な人、大衆と呼ぶのです。

だから僕は、「変態」なる謎の生き物を作りたいのではなく、単に「あなた自身としての人生を生きてください、生きられるようになってください」というメッセージと、そのために必要な知識、スキル、考え方などを伝えていきたいだけなのです。ただ、その結果として、周りから「変態」と呼ばれるかどうか、それはあなた次第、ということになりますが。

自分だけの土俵=独壇場を。

「自分の人生を生きる」というのは、当たり前ですが「他者が代わりに行うことのできない人生を生きる」ということです。この文章を読んでいる人は何らかのビジネスを行っている人、あるいは今後行っていこうという人が多いのだと思いますが、ビジネスの文脈で言えば「競合がいない状態」こそが「普通なんだ」ということです。

世の中のビジネス書のほとんどは下らない本です。内容が薄いということもありますが、それ以上に例えば「競争戦略」などという、競合しているのが当然だ的な「誤った前提で書かれている本が多いこともその一因かと思います。なぜ、競合を前提にするのか。なぜ「代替がきくビジネス」を前提にするのか。なぜ、好き好んでそんなビジネスを目指さなければいけないのか。僕にはその卑屈な態度が全く理解できません。

例えば、僕は和食が好きです。と言うと年を取ったなあと思う面もなくはないのですが、本音として和食というものが世界で一番美味しいと思うし、味の芸術だとすら思っています。だから、世界に誇るべき文化として、もっと外国の人に体験してほしいとも思っています。

世の中には、僕と同じような気持ちの人が少なからずいるようで、ネット上ではいろんな意見を目にします。中には当然、僕と同じように和食を愛しているのに、僕とは全く考えが違う人もたくさんいます。

一例を挙げれば、「もっと和食をグローバル化するべきだ」という主張。

言いたいことは分かりますが、この主張は典型的な「旧い競争」を前提としたパラダイムから生まれてくるもので、僕は反対です。何でもかんでも世界標準に合わせて輸出していく必要はない。マンガなどのサブカルチャーと異なり、料理というのは「場所」の制約を受けます。どんな気候の土地か、どんな水があるのか、小麦は、塩は、魚は、などというように、その土地の「カラー」が絶対に反映されてくるのです。

ですから、マルゲリータはナポリだし、ハンバーガーはアメリカであるのと同じ当たり前のレベルで、和食は日本固有のものなのです。僕が仲よくしているイタリア人は日本に来るたびにいつも言っています。

「日本のイタリアンは本当においしいし、よく頑張っている。でも、イタリアのそれとは全く別物なんだ。たとえ本場イタリアのシェフが作っていたとしても、それは別物として、美味しいんだよ。」と。

アメリカ人の友人も、「日本にはマクドナルドを含めて、ハンバーガーを食べられるところがないし、ステーキも食べられない」と言います。彼らが言いたいことは、僕にはすごくよくわかるのです。至極単純なマルゲリータやハンバーガーやステーキでさえそうなのですから、和食などという複雑極まるものをニューヨークで作ったら、ロンドンで作ったら、ブエノスアイレスで作ったら、モスクワで作ったら、それはもう「和食的な何か」であって、和食ではなくなってしまうのです。

和食には、固有の「土俵」がある。

つまり、動く必要のない、世界の誰も登ってくることすらできない独壇場が既にあるのです。なのに、あえてその土俵を捨てて、その他の料理がひしめく謎の土俵に丸腰で上がり、勝負するなどというのは端的に「もったいない」と思います。マクドナルド的な和食を世界に展開させたいのであれば、それはチェーン店やコンビニが担えばいいのではないでしょうか。ほとんどの外国人から見れば、コンビニのおにぎりは和食のカテゴリーです。

和食を世界に出す必要はありません。世界が和食を食べに来ればよいのです。

僕らが考えるべきは、和食をいかに世界標準に再構築して輸出していくかではなく、いかに世界が足を運びたくなる日本になり、適切にアピールしていくか、つまりステージを一定以上高くして正しい MSP を提示していくか、ということだと思います。どうせするなら、世間の“専門家”の人たちが言うような不毛な競争ではなく、そういう勝負をすべきではないかと思うのです。

これは、僕ら個人が考えるべき「生き方」と全く同じです。

自分だけの土俵を作り、独壇場にして、世界が無視できない存在になることで、世界に貢献できる自分になる。自分として生きていくことがそのまま誰かの役に立ち、それが少しなのかたくさんなのかは分からないけれど、とにかく世界がちょっとだけよくなる。そんな生き方をすべきだと僕は思っています。

もしそんな人がビジネスを行うのであれば、何だって可能だと思いませんか。そもそも世界が無視できない存在なのだから。

「あと10歳若ければ・・・」

僕は、ここで述べたような「自分の人生を生きる」生き方をしなければ、ビジネスで成功するかしないかも含めて、必ず人生のどこかの段階で、こう思う日が来ると思います。でも、当たり前ですが、人生を巻き戻すことはできません。過ぎ去った時間は戻らないし、下した決断も変えられない。できるのは、常に今の生き方を変えること、今の決断を変えること、それだけなのです。

「残りの人生で、今日が一番若い」

古代ローマのカトーは言いました。彼は80歳を過ぎてから、おそらく世界でも5本の指に入るくらい難解であろう古代ギリシア語を学び始め、それを「もう遅いよ」と嘲笑する周囲の人たちに向かって言った言葉です。

いつからだって人生は変えられる。

僕はそう思います。いつからだって、自分が生きたい人生を生きることは、自分の人生を取り戻すことは可能なのです。よく聞く話ですが、人間が死ぬ時に後悔するのは、挑戦して失敗したことではなく、挑戦しなかったことだと言います。何十年も生きて、最後に後悔する人生だけは僕は生きたくないと思うのですが、そのためにはルーティーンに逃げることなく、日々チャレンジしていくような生き方が求められているということです。

「いつ死んでもいいように」

とは僕がたまにセミナーで言う言葉ですが、人間いつ死ぬかわかりません。僕も30歳になりました。30年も生きてくると、それなりに人の死というものに出会いますが、同じように、明日僕が生きている保証はどこにもないわけです。

とすると、今日、もしどこかで手抜きをして生きていたら、明日の死に際にきっと後悔すると思うんですよね。「あの時あれをやっておけばよかった」って。そして、そういう毎日の積み重ねが人生なのではないかと思うのです。

もしそうだとすると、まさか「やりたくないことを毎日やる」人生で、この「手を抜かない」生き方が続くわけはないと思います。やりたくないのだから、絶対手を抜きたくなる。だからこそ、僕は「やりたいことをやるべきだ」と言っているわけです。「やりたいこと」をやっている限り、それは「手を抜きたくなる」わけがないのですから。

ただ・・・

「お前には、好き勝手する資格があるのか?」

と聞かれた時に、自信を持ってイエスと答えられる人はいないのではないかと思います。「え?資格?」となるでしょう。

僕は、やりたいことをやるには、資格がいると思っています。勝手気ままに、自由気ままに生きることは、ほとんどの人には不可能です。不可能というか、それを無理くりやっても、きっと幸せにはなれない、という意味ですが。

少なからずの人が勘違いしているのですが、自分の人生を生きるとは、単に好き勝手生きることではありません。そうではなく、

自分の人生の責任を取る

ということなのです。そして、それができるのかどうかは「珍しい、人生に何度かしかないような大きなイベント」で試されるのではなく、毎日起こっている些細な、取るに足らない、場合によっては意識することすらない無数のイベントによって試されているのです。毎日食べるご飯、毎日会う人に対する態度、毎日着ている服、毎日使っている言葉、毎秒している呼吸、そういう当たり前のことによって試されているのです。

その積み重ねが、マインドセットと呼ばれるものになります。つまりマインドセットとは、生き方そのものなのです。岐路に立たされたときどのような決断をするのか、実際にどのようなアクションを取るのか、それがマインドセットである、と。何を食べ、何を着て、どのように人に接して、どのようなメールを書いて、どのような呼吸をしているか、むしろ、それらを「意識して丁寧に」やったことがあるのか、そういうことが、マインドセットの根本にあります。

そういう意味で、自由に生きるためのマインドセットは、二段階で考えなければならないと言えるでしょう。第一段階として、ただ頭に「自分はこんな人間になるぞ」と思い浮かべるだけの、「イメージとして」のマインドセットがあり、そして第二段階としてこの現実世界を生きていく上で「実際に」決断・選択するという意味でのマインドセットがあるわけです。

そしてその「自分が行った決断・選択の結果は、すべて「自分が引き受けなければなりません。「絶対モデルみたいな体型になるぞ!」と第一段階マインドセットが決まっても、第二段階マインドセットにおいて毎日パンケーキ屋巡りをしていたとしたら、その結果は全て「自分が」引き受けなければならないのは当然のことでしょう。

マインドセットとは、世間では気軽に使われていますが、本当の意味でのマインドセットとは、決して言い訳の許されない世界なのだということを理解してください。

この“覚悟”こそが、「自分の人生を生きる」ために、つまり「自由に生きる」ために必要な、最も根本的な土台であり資格だと思います。

自分がやったことは、必ず周囲に影響を与えますが、自分はその中で生きているわけですから、その周囲の影響が必ず自分に返ってきます。つまり、僕らには「好き勝手」ふるまう自由があるのですが、同時にその結果を「甘んじて受けなければいけない」状況から逃れることもできないのです。

であるならば、まさに「全ては自己責任」という感覚が重要になってくるのであって、その感覚が腑に落ちた人から、本当の意味で自由に生きることができるようになります。「他人のせいにしているうちは成功できない」となぜ言われるのか。それは、他人のせいにする人というのは、こういう当たり前のことすらも理解できていない脳ミソが腐ってしまった人だからです。

全ては自分がやったことのフィードバックが自分に返ってきているだけなのだと理解するからこそ、だからこそ「情けは人のためならず」なのだと、重要なのは「善なる目的で生きる」ことなのだということが腑に落ち、それを踏まえた上で「好き勝手する」ことができるようになるのです。

自由とは、許可の向こう側の世界に行くこと。

この言葉がピンと来るのであれば、きっとあなたはもう自由に片手をかけつつあると思います。ピンと来ないのであれば、手元にある僕の教材を頑張って復習してください。

好き勝手に生きるために必要なもの。

「自分の人生を好き勝手生きる」ための土台として、自分の人生の責任は自分が取るんだという“覚悟”があるという話を今しました。その上で、3つの要素を満たすことができれば、自由に、好き勝手に生きられると僕は思っています。その3つとは、

1.正しい知識
2.善なる思い
3.正しい行動


です。一応僕はこのすべてをなるべくメルマガやセミナーでお伝えしたいと思って生きていますが、どうしても伝わりやすいのは1に偏るのかなと思います。思いというのは最終的にその人が持てるか持てないかという問題になってしまうし、行動は正しい知識と善なる思いが両輪となって初めて正しくなるものです。ですから、少し残念ではあるのですが、現状、僕は1の正しい知識をメインに、お伝えしているということになると思っています。

この「知識」というものを考えた時に、ひとつ僕が思うことがあります。

世の中に教育機関と銘打っている場所はたくさんあるし、セミナーと称するものもたくさんありますが、僕のセミナーが他と決定的に違うと思うのは、他のセミナーなどが「過去の理論」「過去のノウハウ」を「教えるのに対して、

「未来の理論、未来のノウハウ」

を「作り出そうとしているところではないかなと思うのです。本当にこれ以上ない手前味噌になりますが、本心からそう思っています。「ノウハウ(テクニック)を学ぶな、それを作れる人間になれ」と言い続けているのは、言い換えれば「未来を自分の手で作れる人間になれ」ということなのです。

だって、「人を育てる」ってそういうことでしょう。「自己投資」ってことは、未来にこそ大きなリターンがなければダメでしょう。「自分の脳ミソこそが最大の資産」なら、ジャンク債ではなくちゃんとそういう脳ミソを作ってあげないとダメでしょう。

Stay Gold セミナーでは「自分の成功法則は自分にしか作れない、それを作れる人間が成功する」という話をしましたが、それをできる人間になってほしい。僕がいろんなことをしゃべっているのは、ひとえにそういう思いからです。そういう人が増えれば、世界がよくなって、結果、僕の人生もよくなっちゃいますからね。わーいわーい。

ドラッカーの見誤った未来。


そう言えばドラッカーは、その著書の中でこんなことを言っていました。

「知識社会は、競争の激しい社会である。知識は普遍であり、成果を上げられないことの弁明ができなくなる。」

この見解は、基本的には正しいと思います。しかし、現実を見てみると、少し違うところもある、と言わざるを得ないのもまた事実でしょう。僕が昨年の Stay Gold セミナーで言ったことですが、知識というものは普遍的・客観的だからこそ、どんどんと価値が小さくなっていくものなのです。それは、知識というのはある種のアルゴリズムさえあれば、集約したり、組み合わせたり、削減したり、整理したり、何でもできるからに他なりません。

知識のような客観的なものは、概念としては「コンテンツ」とまとめることが可能ですが、「これからの時代はコンテンツの時代ではない、コンテクストの時代だ」と僕が言ったように、知識それ自体の価値は、グーグル大先生などが頑張っているおかげもあって、ほとんどゼロに近づいてきているのが現状です。

客観的な知識を含む「コンテンツ」というのは、科学や技術によっていじることができます。今求められているのは、そういう客観的な知識それ自体ではなく、それらを「いかに運用していくか」というメタ知識の部分、言い換えれば主観の部分、さらに言い換えれば

「知恵」

の部分であると言うことができるでしょう。そこは全く普遍的ではないし、成果を上げられない弁明も可能となる領域です。ただしそれをしてしまうのは、自らが低い志を持ち、適切な努力をしてこなかったことを告白することになるわけではあるのですが。

いずれにしても、僕のセミナーやメルマガ、音声などというのは、一見知識という名のコンテンツを提供しているように見えるかもしれないのですが、実はコンテクストを提供しています。読んだ人、聞いた人、受講した人が「実際に」進化成長していくために必要な、「知恵」という名のコンテクストを提供しているのです。

二種類の人間。

ところで、先ほど議論した「他者から必要とされる人」つまり「世界に貢献できる人」ですが、こういう人は、実は二種類います。

ひとつは、自分のために生きて、それが結果として他人のためになる人です。アーティストとか、研究者とか、そういう人達がここに入ります。もうひとつは、他人のために生きてそれが結果として自分のためになる人です。ボランティア活動に熱心だったり、NPOや NGO といった組織に憧れたりする、あるいは「社会企業」という言葉に憧れたりする人は、こっち側に属することが多いでしょう。

この際ですから、はっきり言っておきます。僕が理想としているのは、僕のセミナーで育てようとしているのは、前者です。ですから、僕のメルマガや音声、セミナーなどがピンときている人は、自分では実感はないかもしれませんが、前者を求めている人なのです。

もちろん、僕も30歳になり、若かったあの頃、何も怖くなかったあの頃とは違ってだいぶ丸くなり、考えも穏やかになってきましたから、「他人なんて無視してとにかく自分を表現するんだ、芸術は爆発なんだ!」とまでは主張しません。セミナーにきてくれている方は分かるように、「俺様」と「相手」の間で「良きバランス」を見つけることこそが成功への近道なのです、という至極中庸な主張をするに至っています。

が、そもそも論として「表現する自分、提供する自分」すらない状態では、バランスもへったくれもないでしょう。そういう意味で、僕は「自分という太い軸とでっかい土俵がしっかりある」ことが前提となっている、前者の人たちを育てたいと思っているということです。

さらに語弊を恐れずに言いましょう。後者はルーティーンワーカーの一種で、サラリーマンと本質的には変わらない生き方なのです。自分という強い軸がなく、世界に貢献できる、つまり誰かの役に立てる能力もスキルもなく、ただ漠然と「誰かのために働きたい」という、ある意味で人間として当たり前な「感情」に突き動かされている“だけ”のサラリーマンです。

ですから、言葉は厳しいですが、アーティストとしても力不足、サラリーマンとしても力不足な、非常に中途半端な人だと僕はみなしています。「中庸」であることと「中途半端」であることはその質において全く異なります。

世の中で「社会起業家」として成功していると言われている人、「慈善事業家」として成功していると言われている人、そういう人達は、実際に会ってみるととてもよくわかりますが、実は前者の人達なのです。

まず自分がある。世界に提供できる極めて有用な自分があるのです。

その上で、その自分を使って、自分の利益ではなく、世界の利益のために働いている。そういう順番になっています。そういう順番になっているのに、そんなこともわからないお花畑の住人が丸腰で「世界で闘うんだ!」とか寝言を言って飛び出してしまっているのが、多くの現実なのかなと。

「寝言は寝て言え、寝言じゃないなら今すぐ目を覚ませ!」

と僕は言いたいのです。もちろん、皆さんにも。そして、目を覚ましたならば、さあ早くいろんな活動を開始してください、と付け加えたいのです。

世間一般では、「まずは他人のために働きたいと思っている人」を十把一絡げにして「人格者」とみなす空気がありますが、僕らはきちんと区別しなければなりません。「本当に世界に貢献できる力を持った」利他主義者なのか、その力を持たない、ただの口だけの利他主義“風味”の人間なのか。

「利他主義」とは、抽象的な概念ではありません。他ならぬ、僕らがリアルに生きているこの“現実”において、他者の利益を実際に増大させることができる人にしか、口にしてはいけない言葉だと僕は思っています。その覚悟と実力がないのであれば、この言葉を口にできない。にもかかわらず口にするのであれば、それは「風味」でしかないでしょう。

「現実に」利他主義を実現しようと思ったら、熱い想いとか、崇高な理念とか、美しい理想とか、正しい考えとか、そういうものだけでは片手落ちなのです。「頭の中でいくら銀貨を想像しても、実際の銀貨は生まれない」とカントは言ったわけですが、これはまさに正しいことでした。
頭の中で誰よりも綺麗なことを考えていたって、現実の世界は綺麗にならないのです。

「カネを稼ぐ」ことは「正しい」のか?

その結果だけを見て一概に正しいかどうかは判断できませんが、これだけははっきりと言うことができます。

資本主義・貨幣経済というシステムの中にあって、何かしらの理想を実現しようと思ったら、お金をある程度稼いでいくことは避けられない。

しかしお金だけを追い求めている人を見ると、なぜだかその人たちは、稼げば稼ぐほど、逆にどんどんと貧しくなっていく気がしますよね。自分はそうはなりたくない、と思うでしょう。僻みとは別個に、そういう感覚が湧き起こると思います。

「自分には志があり、理念があり、理想とする生き方がある。それを犠牲にしたくはないカネの亡者みたいになって生きるのはカネの奴隷になるということで、自由になりたかったのに本末転倒じゃないか。そんなのはまっぴらごめんだ。しかし、自分の理想を「この世」で実現するためには、ある程度のお金が要る。ああああぁぁぁぁぁ・・・(以下無限ループ)。」

こういうループは、真面目に生きていこうと思えば思うほど、絶対に避けることができないものだと思います。僕が Stay Gold セミナーで数年ぶりに「ビジネス」というものについて正面から話すことを決めた時、ごく一部の方からがっかりしたという声が聞こえてきました。どういうことかと言えば

「やっぱり大事なのはカネ儲けなのですか」

ということで、それまでの数年間、僕がある意味で「善なる人間になるにはどうしたらいいか」というような話ばかりをしていたために、急に「ビジネスってどうやるのか」みたいな話をするという決断についてこれなかったのだと思います。

こういう気持ちも分からなくはないのですが、少し思考の次元が低いのではないかとも感じます。おそらくほとんどの人には、程度の差はあれ、「理念 vs 金儲け」という二項対立的に世界が見えていると思うのですが、僕にはそう見えていません。両者は止揚され、全く矛盾しない「同一のもの」として理解されているのです。

先に述べた3つの要素、「正しい知識、善なる思い、正しい行動」が揃っているならば、お金を稼ぐのかどうかというのははっきり言って重要な問題ではなくなります。お金は「必要なだけ稼げている」状態になるからです。理念を犠牲にすることなく、カネ儲けを優先させることなく、かと言ってどちらも妥協する必要がなく、人生を歩いていくことができるようになります。

それを具体的な言葉で体系化したのが Stay Gold セミナーでした。

僕がビジネスについて語るとき、そのセミナーでは、ビジネスがうまく行く方法に加えてこの二項対立を解消するお手伝いをしたいとも思っています。いわば、真面目な人ほど陥る“例の”無限ループの解決です。一段高い次元からビジネスを理解できれば、この無限ループはたちどころに消えてなくなるのですから。きっと、Stay Gold セミナーを受講してくれた方は、そのことが実感できたのではないかと、ひそかに願っています。

そして、今回のWake Upセミナーでは・・・

Stay Gold セミナーでお話しした「正しい土台」「正しい原理原則」を踏まえて、実際に「正しい行動」に移っていくために必要なものを提供したいと考えています。具体的には

1.学び方(正しいインプット)
2.コミュニティ内でのリーダー化
3.マネタイズのいろいろ


の3つについて、いろんな角度から包括的にお話ししようかなと思っています。Stay
Gold セミナーにおいて、概要と原理原則については既に話し終わっていますが、そ
れをさらに掘り下げて、具体的にどう学んでいけばよいのか、コミュニティの中でどう
リーダーとしてふるまえばいいのか、何を言うべきか、何を言わないべきか、「背中を見
せる」とはどういうことなのか、そんな話をしていきたいと思います。

特に3の「マネタイズいろいろ」については、面談をしていたり、メールで相談をもらった
りしながら多くの人が誤解しているなと感じた部分を掘り下げる予定です。

「コミュニティを作って、ほしいものを聞いて、商品にして売る」

とか、そういう話ではないのです。Stay Gold セミナーにおいてそんな Old fashioned
な話は1秒もしていないつもりなのですが、どうも少なからずの人が、これと大差ない理
解にとどまっているように感じました。そのため、せっかくコミュニティが作れているのに 、
その後で昔ながらの「ビジネス」をやってしまうためにすべてを台無しにしてしまってい
る、そんなケースも散見されました。

僕が Stay Gold セミナーで言ったのは

「強固な MSP によってコミュニティを作り、理想世界に向けてみんなで歩いていく、その過程“それ自体に”お金の移動が発生することもある」

ということです。

誤解している人のほとんどは、この“それ自体に”という部分のイメージがつかないようでした。ですので、今回のセミナーでは、いくつかの具体例を用いながら、歩いていく過程自体がそのままビジネスになっている、という状況の解説をしたいと思います。

コース概要

セミナーの具体的なコースの内容を以下に説明しておきます。まず、コースは3つです。

1.守コース
2.破コース
3.離コース


です。案外使っていなかった、この守破離。語呂というかリズムがよくないのですが、コース分けのニュアンス的にぴったりなので、採用することにしました。

※離コースは直接サポートがつくコースのためアーカイブスには含まれていません。

【守コース】

一番ベーシックなコースがこれになります。セミナーが2回開催され、今お話しした正しいインプットの仕方やリーダー化、そして具体的なマネタイズに関する解説をしていきます。先ほどの繰り返しになってしまいますが、

・リーダーとしての勉強法(具体的に何をどう学んでいけばよいのか)
・「コミュニティ」とは本当は何なのか、そしてなぜ必要なのか
・コミュニティの中でのリーダーとしてふるまい方
・リーダーとして何を言うべきか、何を言わないべきか
・「背中を見せる」とはどういうことなのか
・信頼されるリーダーとされないリーダーの違い
・「くっつける」「太く高いビルを建てる」「でっかい土俵を作る」ための方法論
・人が行動する具体的な理由
・コミュニティ化からマネタイズへ(その移行プロセスの具体化と視覚化)
・結局、リーダーの最も重要な役割とは何なのか


などなどを、いろんな角度からお話ししていこうかなと。要するに、

「色々学びました、さてではどう実践していきましょうか」

という話をするということです。これらの内容を理解し、実践してもらえれば、必ずや2014年以降、自らのビジネスをやっていくにあたってお役に立てると思います。特に、この中でも特に興味を引かないであろう「コミュニティとは何なのか」「リーダーの役割とは何なのか」という一見余りにも地味な話が、とても重要になります。

「コミュニティを作ればビジネスが簡単に上手く行くんですよね!」とか言っているバカな人はさすがにもういないとは思いますが、「わざわざ」コミュニティを作る意味、「わざわざ」リーダーになる意味がきちんとあります。これを理解しているかいないかで、リーダーとしての質、コミュニティの質と強さが明らかに変わってきますので、既にコミュニティを作りつつある人ほど注意して学ぶようにしてください。

【破コース】

ベーシックな守コースに加えてセミナーを1回追加で行います。この1回プラスされるセミナーは、少しアドバンストな話をしようと思っています。と言っても別に難しい、難解な話をしたいわけではなく、守コースを少し抽象度を上げて、全体を俯瞰できるような視点からまとめ、その視点から更なる情報を足していきたいなと考えています。

イメージ的には、守コースが What と How についての観点からの話が多くなるのに対し、この破コースで1回プラスされるセミナーは Why についての観点からの話を多くしたいなと。What と How と Why が揃ってくると、かなり無理難題と思えることにもスラスラと考えが及ぶようになってきます。例えば、

・「行動」というのはどの程度大切で、なぜ大切なのか
・「理解」と「知識」と「知恵」と「創造」の関係はどのようになっているのか
・リーダーが見せる「バラ色の未来」とは究極的には何なのか
・人は何のために生きているのか(=人にとっての幸せとは何なのか)
・ステージを上げるために「勉強」をしなければならないのはなぜなのか
・「経験」と「知識」はどういう原理で統合されるのか
・「余裕」と「自信」は具体的にどう違っていて、なぜ大切なのか


などなといった(一見無茶な)質問をコミュニティのメンバーからされた時に、どのくらい明確な答えを提示できるのか、今ちょっと考えてみてください。もちろんこれらの質問に「答え」などはありませんが、しかし自分なりにきちんと答えられるかどうかはリーダーとして非常に大切な力です。

「こんな変な質問されないから別にいいよ」という態度では、遅かれ早かれコミュニティのメンバーにもリーダーの器が知れてしまいます。僕らが何となく、根拠もなく人の器を評価してしまうのと同じで、そういうものは透けて見えるものなのです。器と筋肉はデカイ方がいい、を合言葉に頑張っていきましょう(いや、筋肉は強制しませんので大丈夫です)。

結局、“失敗しない方法”はあるのか?

さすがに絶対とまでは言えませんが、僕はあると思っています。別に失敗すること自体は何も悪いことではないと思いますが、ビジネスを始める前というのは、そういうことが無駄に心配になるものです。だから何とか失敗するリスクは低くしたい、そういう思いがふつふつと湧いてきても、それは自然なことでしょう。

Stay Gold セミナーでは、僕は失敗しないための枠組みを詳細に解説したつもりです。あの通りにビジネスを考えてくれたら、まさにみんな大好き、「失敗しようがない」状態になると思います。そういうのは、いわゆる「勝ち戦」と呼ばれるものですが、これについてもかねてより、世間は何かしらを誤解していると感じていました。

まず、「勝てる試合にだけ行く」のではありません。それでは成長も進歩もない。自分のステージが上がらないので、遅かれ早かれ行き詰ります。かと言って、「勝つまでやる」のでもない。息切れして疲れます。そんなに心が強い戦士ばかりでもないでしょう。言っていることは間違いではないのですが、現実問題、これができる人というのは、もうとっくに成功しているのではないかと思うのです。僕がセミナーで解説したのは、このどちらでもなく、

「勝てる試合にする」

ということです。勝つとわかっているところにヘラヘラ行くのでもなく、勝つか負けるかわからないところで歯を食いしばって必死に戦い続けるのでもない、ただ知恵と工夫で、「自分が勝てるようにルールメイキングしてしまえ」と言っているのです。

この「ルールメイキング」は、今年のセミナーの大きなテーマのひとつでもあります。インプットする際にも「自分に」最適化された形でインプットすべきだし、コミュニティだって自分が提示した MSP で作られるのだから「自分が」ルールメイキングをしていることになるし、どこかのタイミングでマネタイズする際、それが遅滞なく進むようにルールメイキングするのも「自分」なのです。

「自分だけの成功法則を作れ」「自分だけの土俵を作れ」とずっと言ってきているのも同じことですが、こういうものを、もう少し具体的に掘り下げて解説していけたらなあと思っています。

「情報弱者は死ねばいいと言う人と「搾取すればいいと言う人ばかりの中で、「我々は大なり小なり情報弱者である」という前提で成功法則を
語りたいのが僕なのだと、自分では思っています。何となく、木坂のセミナーは一部の頭のいい人向けに作られていて、一般人にはそもそも理解すらできないなんて思われているフシもあるようですが、全くの誤解です。

確かに、あまりにもアレな次元の“スーパー情報弱者3”レベルの人はセミナーにこないでしょうけど、僕はセミナーに来る人は皆凡人であって、平均的な人であると想定していつも話しています。そして、これもセミナーで言ったことですが、

「凡人だからこそ成功できる世界がある」

と僕は考えていて、そのために必要な概念や手法を僕なりに体系化してお話ししているつもりなのです。

「救いがたいバカ」というのもこの世には存在しているのかもしれませんが、そんな人はおそらくこの文章をここまで読めていないでしょうから、「自分が果たして理解できるのだろうか、実践できるのだろうか」という心配は必要ないと思います。

今後の人生がかかっていることです。決して「簡単に」「楽して」何かが得られるわけではありません。しかし、ここまで僕の文章を読めるくらいの普通の脳ミソと熱意があるのであれば、必ず理解できます。

「成功したらその人の努力のおかげ、理解できないのは僕の責任」

だと僕はいつも思ってセミナーをやっています。これは高校の時のラグビー部の監督が言っていた「勝ったのは選手の頑張り、負けたのは指導者の責任」という格言をそのままパクっているだけですが、リーダーとしてのあるべき姿を表している気がして、いつも忘れないようにしています。理解できた後も、もちろん本人は「実践」が大変ですから口が裂けても「成功したのは俺のおかげだぜ、感謝の気持ちにあと100万円振り込みな」なんて言えないのです。そんなの当たり前・・・に思えて案外当たり前じゃないのが汚い大人の世界だから恐ろしい。

まあ、汚い大人は置いといて、そんな汚くない僕と共に歩いてみようかなと思っていただけるようでしたら、是非セミナーにご参加ください。個人的には、受講者の成長が加速するのはもちろんのこと、勉強や努力自体が楽しくなることを裏の目標にしています。僕の「主体的な勉強」の原体験は、小学生の時に全巻読んだ「シャーロックホームズの冒険」です。それ以来、僕は

「ミステリー小説の楽しさで勉強を」

が実現できたらどんなに楽しいだろうと思って生きてきています。毎年のセミナーですが、ほんの少しでも、これが実現できていればなと思いながら、あれこれ考えています。

初めての方も、2回目以降の方も、是非、体験してみてください。

長々とお疲れ様でした&ありがとうございました!

木坂